とりつくしまがない

ゴールデンウィーク。

休みの続く日。


子どもの時は、ゴールデンウィークというだけでワクワクしていた気がする何故かまでは分からないが、とにかくゴールデンウィークはワクワクしていた。


昨日は代々木公園と渋谷駅ハチ公前で、知らない人に声をかけていた。比較的にして、昨日はその場で話しこむ機会も多かった様に想う。


もちろん、多いと思うのは比較的に、相対的に、という訳であって、その場で話し込む数に比べると、無視されたり、あしらわれる対応をしたり、興味や関心を示してくれなかったり、がとても多い。


「とりつくしまがない」


という表現がある。まさにそんな感じだ。
交流できていないことの方が多い。


これは、今の時代、この日本でなら、当たり前のことなんだろうとは思う。その当たり前のことを、根っこから覆したいとも想い、声をかけている。


無視されることや軽くあしらわれることは
覚悟の上で、なんだね。


ところで無視されたり、軽くあしらわれる中であっても、極度に集中を高めると観えてくるものがある。そちらの感性を大事にしているところがあって、今からの時代はその感性なしには生きていけないと僕自身は想っている。


声をかけることは、その意味でも楽しい。感性という観点から観る時には、間違いなく時代の最先端を走っており、世界初、歴史最初の行動と言っても過言ではない。


もちろん、宗教の勧誘や高額商品の勧誘などの様に、知らない人に声をかけることを目的化してしまっている人たちがいることは知っているので、形だけを見る時には世界初、歴史初ではないかも知れない。


それとは違うんだね。感性という観点から観て。
今の時代、この日本は、大体にして感性がマヒしている。


素晴らしい感性を備えているこの国だったのに、今では使う人、使う機会が随分と失われている様だ。


世界から観るときに、年々、日に日に、孤立化していく日本。


孤立化するときに、世界に通用する感性を備えている時は何ら問題ない。だが、世界に通用する感性を備えていない場合は、日本はどうやって生きていけば良いのだろう?


知らない人に声をかけながら、そんなことを想う日々である。