2018年
11月
25日
日
渋谷駅付近のとある場所のこと。
その頃、渋谷駅はまだまだ路上で引き語りをしている人がいたのだが、島崎は引き語りに遭遇しても早々足を止める事は無かった。
ある夜のこと。
その日の弾き語りはとても明るく見えた。実際、傍で聞いている女性らを見ると明るいのだ。明るくて元気な振る舞いで歌を聞いている彼女らを見ると、弾き語るアーティストが何を歌っているのか分かる。
歌っているのは確かにアーティストの彼であるが、しかし傍で一緒に踊る彼女らも歌っている様に見える。
そして、アーティストの姿でもある。
その光景に興味が湧いて、足がゆっくりと落ち着き、ある所に座り込み聞く様になった。
曲は、とても心に沁み渡るものだった。
島崎もその時から続く一人のファン。
有り難い事に今に続く関係にまで磨かれているのであるが、それはひとえに彼の心の器が大きく、心の目が見開いているに他ならない。
島崎が見る彼は、本当に心の人間。
今日、個人的な想いではあるが彼の曲を聞いてもらいたいと思い、ここに紹介したい。彼の曲は勿論、この一曲に留まらないし島崎が大好きな曲は他にも沢山ある。
カラオケで歌う事もある曲。
歌いながら涙が流れる曲。
ぜひ一度、聞いてもらいたい。YouTubeなどで、「モリナオヤ」「夕空の紙飛行機」と検索するとヒットする。
感動したあなたなら紙飛行機を飛ばしたくなるだろう。
2016年
2月
20日
土
衝撃的な主張だ。
タイトル。
このような主張を聞いたことはあるだろうか?島崎は、ある時からこの表現とよく出会う。そして、この表現の意味が年々、深くなっていく。
人間は、自分が意思決定したことは一度もない。
本当だろうか?
そんなことは無いだろう。
そのように思う人は多いと思う。
だが、全ての人がこの通りである。
人間は、自分が意思決定したことは一度もない。
そして、このことがよく分かるからこそ、∞の可能性との出会いを果たし、希望溢れる未来が切り開かれていく。人間は、自分が意思決定したことは一度もないことを明確に分かるからこそ・・・
2016年
2月
18日
木
本当は人の話を聞いていないのに、聞いているフリをする。本当は関心がないのに、関心があるフリをする。そうして相手に合わせることの何と多いことか。
人は、もっと正直であっても良いのだが、相手の気を悪くすると思い、迷惑をかけるよりはその場を濁さないようにしてサッと流してしまうことがあるが、その場の気持ちよさはあっても、そのことがもたらすマズさという事に気付いていない人も多い。
そのマズさには中々気付かない。
相手に合わせるということ。
自分を亡くすということ。
それは、良いこともあるけれど、マズイこともある。
2016年
2月
14日
日
何か一つの能力を磨くことに多くの時間や労力をかける人は多いのではないだろうか?島崎は学生の頃、能力に秀でたくて本を多く読んだり、日常生活のふとしたところを活用して訓練したりしていたが、一つの能力が磨かれるまでには多くの時間や労力がかかったものだ。
もちろん、楽しみながら取り組んでいるのだが、もっと早くに取り組める方法を知っていたら採るべき手段も違っただろう。しかし、早くに取り組める方法などイメージの外なのだ。
島崎は知らない人に声をかけて久しいが、振り返ると知らない人に声をかけるというのは非常に多くの能力が同時に養われる。
ありがたいことに短期間で養われる。
これは、とてつもない恩恵。
信じがたいことかもしれないが、多くの人が沢山の時間や労力をかけても得られないほどの能力を、知らない人に声をかけることで島崎は得ている。
出会ってくれた人たちには、
そういう意味からもとても感謝している。
2016年
2月
12日
金
人と人とが長く付き合うとき、その期間が長ければ長いほど、そのキョリが近ければ近いほど、自分と人との間には溝の様なものと出会う。
違い。
自分と人とは違う。
その違いに出会う。
人は、違いに出会うときにどうするか?
あなたなら、違いに出会うときにどうするか?
2016年
2月
12日
金
誰もが心の奥底では願っていること。希望だけを観ることが出来れば何てステキなことだろうか?希望だけを観る目を、皆さんは欲しいと想うだろうか?
人間だったら本当は、誰もが皆んな希望だけを観たいと想うだろう。いや、そうではないという人がいたとしても、それはいつしか何らかの理由で、その様になってしまった背景があるからなのであって、1人の例外も無く皆んな、希望だけを観る目で希望を観ていたいと思うだろう。
そんな目をもてるなら、
欲しいと思うだろうか?
2016年
2月
10日
水
人の心はコロコロと変わるものだ。
昔も今も、それは変わらない。
人間の心がコロコロ変わることも、
一つの真理のようなものかも知れない。
人は、そこまで強くいられない。
だからこそ、強いものには憧れる。
本当の強さは、
心からくるものだ。
2016年
2月
09日
火
今の時代はどんな時代だろうか?
感動に溢れたいと願う心に溢れてはいないだろうか?
就職氷河期という表現があるように、今は感動氷河期だと思う。ここまで情報が溢れて、情報処理のスピードが激しくなっている昨今、心をどこかに置き忘れている人も多いのではないだろうか?
目の前のことに追われてはいないか?
目先のことに必死になってはいないか?
そのたびに、心を押し殺し、感情を押さえ込み、考えをしないように留めて、日々を過ごす人も多いと聞く。しかし、人間はやはり人間だから、感動に憧れるようになる。
数年前に韓流ブームとなったのは、
激しい感情の表現に惹かれる側面も大きい。
いま、感動氷河期。
人は、感動に溢れたいと願う心に溢れている。
2016年
2月
08日
月
人が話をしているときに、自分が話をしているのを見たら皆さんはどう思うだろうか?人と話すシーンは至る所であるが、実はそれと変わらないことが起きている事実があることを多くの人は気付いていない。
人が話をしているならば、聞いてあげることが双方にとって良いだろう。そして、話をされている時と同じくして自分が話をしていた場合、相手に失礼になるだろうし、立場が逆の場合は、相手に対して何かしらを思うのではないだろうか?
会話が成り立っていない。
そのことに気付いていないままに、
やり続けてしまい起こり続ける。
人が話をしているときに、
自分もまた話しているのだ。
2016年
2月
07日
日
皆さんは外に出たくないときはあるだろうか?今は冬の寒いときだから、出来るなら外には出たくないと思うかも知れない。
だが、寒いときにも外に出て何かしらの動きをなしている人を見ると皆さんはどう思うだろうか?忙しすぎる現代では、何かを思うことは少ないのかも知れないが、それでもフッと想う出す機会がありそうなら、寒いときに外で動いている人たちに想いを寄せてみて欲しい。
きっとその人たちの意志や意欲に触れることがあるだろう。
多くの動物は、寒い冬には活動を停止する。
人間は動物とは違うが、それでも冬は大人しくなる。
そんな中でも活動的に何かしらの動きをしている人は、熱を発しながら活動する訳だから、その熱量の高さには尊敬する。冬や氷河期のときほど、生きることを試される訳だから、冬や氷河期の最中には人間の人間らしさがより際立つと言える。
寒いときには、心の目を開いて周りをみてみよう。生きる意志や意欲のようなものを感じるだろう。
2016年
2月
07日
日
言葉を扱う人間は、動物とは違う。
人間は動物だという人もいるが、
言葉を扱う人間は、やはり動物とは違う。
言葉を使うことで、社会が生まれた。
動物は、地球環境を自分に都合の良い様に新たに生み出したりは出来ないが、人間はビルやエアコンや洋服のようにして地球環境を自らの都合の良い様に新たに生み出したり出来る。
人間は素晴らしい。
人間として生きることは美しい。
2016年
2月
05日
金
芸術は、爆発だと言った人がいる。
人間は、芸術のように生きられるはずだ。芸術のように生きている人間を僕たちも知っているではないか。ドラマであったり映画であったり漫画であったり色んなシーンで芸術のような生き方をしている人に出会うことがある。
人間は、芸術のように生きられる。
芸術のように生きている人がいる。
気付かないだけで、自分たちの身近な周りにも芸術のように生きている人はいるかも知れない。
人間は芸術のように生きている。
人間は、いつだって爆発できる。
2016年
2月
05日
金
やる気が起こらない。
それが自分であっても、
それが周りであっても、
やる気が起こらない現象にはよく遭遇するだろう。そして、やる気が起こらない原因は、本当のところは一体、何から来ているのか誰も分からない。正直に言えば、誰も分からない。
だけど島崎は言う。
人間を物質のように見ているからだ。
それがやる気が起こらない一つの理由。
人間を物質の様に見るから、
人間はやる気が起こらない。
人間は、物質ではないのだ。
2016年
2月
04日
木
知らないことは沢山あるものだ。
知っているつもりでも、
意外に知らないことも多いものだ。
知っているつもりでも、
知らないことは沢山あるものだ。
2016年
2月
02日
火
知らない人から声をかけられることは、今の時代、この日本では、怖くて不安で身が引き締まる思いがするかと思う。
変なことに巻き込まれてしまう。
訳の分からないことは関わらない。
だから、普通は相手にしない。
そして、低く見下すこともあるだろう。
それを分かって島崎は、声をかける。
知らない人に声をかけることは、自らを低める行為かも知れない。だけど、それを分かって声をかける。相手から無視をされようとも、軽視されようとも。
声をかけてみれば、
反応する人がいるからだ。
人間は、∞の可能性だからだ。
∞の可能性を確認できる時代だからだ。
2016年
2月
01日
月
多くの人は、情報を物質の延長で見るのではないだろうか?物質的な印象や発想で情報とお付き合いするのが多くの人たちであろうと思う。情報は、物質の様に均一であり、物質の様に平均的であり、物質の様に固定的である、と。
だけど、情報を心として観る方が、
人間的で、日本的ではないだろうか?
情報は本来、命のようなもので、関係によって意味合いや価値が変わったりするものだ。同じ情報を聞いても、シチュエーションが違うと全く違う意味合いや価値として受け取るだろう。
例えば、島崎は知らない人に声をかける。
そのシチュエーションと言えば、理解し難い。
知らない人が声をかけてくるシーンだ。
そこで語られる話の内容を、皆さんはどう思うだろうか?
友だちから聞いたとき、親から聞いたとき、メディアが取り上げたとき、専門家が語るとき、他にも様々な情報との出会い方があろうかと思うが、島崎が知らない人に声をかけるというシチュエーションは、これらのどれよりも、意味合いは薄くて、価値も低いものとなるだろう。
それは無意識の内に、情報を心として観ているからではないだろうか?そして島崎は、心として観られていることを分かりながら声をかける。
普通では聞けない情報を語る。
その時に、心がとても大切。
悔しいことも沢山ある。
しかし日々、心を磨いておりたいと島崎は想う。
2016年
1月
30日
土
出会うことを神秘神聖で観ることは難しい。
だけど、出会いを神秘神聖で観てみたい。
本来は誰もが皆んな、そう想っている。
だけど、簡単に見えてしまうし、簡単に聞こえてしまうし、簡単に触れてしまうから、見えたり聞こえたり触れられることに美しさや有り難さを感じることが中々できない。
人は、もっともっと出会いを楽しめる。
人は、もっと感動で居続けることができる。
人と人とが出会うことは、本来すごいことなんだ。
2016年
1月
28日
木
知らない人に声をかけることは並大抵のことではないので、とても出来ない。普通にしていたのでは、とても出来ない。
1回や2回は出来るかも知れない。
だけど、1年もやり続けること、
5年もやり続けること、
10年もやり続けること、
それはとても出来ない。
普通にしていたのでは、
とても出来ない。
知らない人に声をかけるということは、どういうことだろう?皆さんは、考えたことはあるだろうか?
皆さんは、知らない人から声をかけられたことはあるだろうか?皆さんは、知らない人に声をかけたことはあるだろうか?その時の体験は、どのようなものだっただろうか?
1年も起こり続けること、
10年も起こり続けること、
それを許容できるだろうか?
目的を持っているから、知らない人に声をかけると多くの人は思う。しかし、目的を持っている人は、目的を外されたり、目的がぶれたりするので、知らない人に声をかけ続けることは出来ない。
目的を持っているなら、
知らない人に声をかけ続けることは出来ない。
普通にしていたのでは、
知らない人に声をかけることはしない。
島崎は、知らない人に声をかけ続けたいと想う。
2016年
1月
26日
火
言葉にならなくても心が溢れていることを感じる。言葉にならないから心が走ることがある。大事なことは、必ずしも言葉によって伝えられるものではない。
生きてきて誰もが皆んな、
その様なことを一度や二度は感じるだろう。
言葉は、人と人とが意思疎通を図る一つの大きな手段ではあるけれども、あくまでも一つの手段なのであって、意思疎通は言葉を超えたところからでも起こることがある。
ただ そこには限りない集中と
それまでの膨大な蓄積がある
本人らはそのことに気付かないくらいの繊細な領域で、確かにそうした作業が行われているし行われてきた。限りない集中と膨大な蓄積。
人間は
体による人間ではなく
心による人間
そうは思わないだろうか?
2016年
1月
25日
月
知らない人に聞いてみた。
「もし、何の条件やしがらみもない場合。例えば、お金や時間や能力や今の仕事・学校などが自由自在であった場合。お金も∞に持っている、時間も気にしない、今の仕事とか学校や自分の能力に限界がなかったとしたら。一体、何になりたいですか?何をやりたいですか?」
皆さんは、どの様な応えが多いと思うだろうか?
皆さんなら、どの様に応えるだろうか?
今の時代、
この日本では、
こうした条件やシガラミを排除した中での話が中々しにくいもの。「現実的に」という言葉を冠にして、まるでそれが王さまであるかのようにして毎日が進む。
だが、人間1人ひとりは本来、誰もが皆んな、自らが王さまになれるものだ。誰かに決め付けられた人間観ではなく、本来の人間観である場合、人間は∞の可能性であり、その人間が生きる人生は何でもなれるし、何でもやれる。その心の声を、心の叫びを、島崎は聞いてみたいのだ。
人間は、∞の可能性。
皆さんは、何になりたい?
皆さんは、何をやりたい?
2016年
1月
24日
日
そうは思わないだろうか?
知らない人に声をかけてはいけない社会。
知らない人は、何かに巻き込まれるものだ。
知らない人は、自分の範疇を超えた何かだ。
知らない人は、知らない出来事をもたらす。
知らない人は、とにかく人を利用してくる。
知らない人というのは、善良な人の心を利用して何かしらの悪事を働き、社会の秩序を乱すものとして機能している。知らない人とはそんな奴だ。
そんな見解をもってはいないだろうか?
ニュースを見ているとそうだろう。
人の話を聞いてみてもそうだろう。
多くの場合はろくな話がない。
何とも暗い社会ではなかろうか?
いや、それとも暗いのは意識の方か?
こう考えてみてはどうだろうか?
社会という存在があるのではなく、
社会という認識があるのではなかろうか?
実は、社会という実体はなく、
社会は観念。その観念を生み出す意識の問題。
知らない人との出会いがないのなら、人間は一体どうなっていくのだろうか?皆さんは、考えたことがあるだろうか?知らない世界との出会いがないのなら、人間は一体どうなっていくのだろうか?
知らないということに何か悪いイメージがあるなら、知らないところから出発した人類の始祖たちは、或いは現代であっても赤ちゃんたちは、劣っていて敬遠されるべきものなのだろうか?警戒されるべき対象だったのだろうか?
知らないということが問題なのではなく、
知っているということにまつわる問題。
そして、そもそも知っているということすら、本当に知っていることになるのか?との疑問を抱くとき。知っているということであっても、相当に危ういことだってある。ホントに知っているの?
よくは理解していなくても、知っている。
人間は、そういうことが沢山ある。
知らない人に声をかけてはいけない社会。
だからこそ、島崎は声をかける。
声をかけることで、その社会は変わる。
誰もが声を掛け合うことが当たり前の社会。
人間は、おかしな存在ではない。
人間は、∞の可能性。
いま、人間に対する再規定が必要なとき。
そこに疑問を放つ時が来ている。
だから、知らない人に声をかける。
2016年
1月
22日
金
今日はもうやるべき事をやったのに、それでもまだ意欲的に仕事をこなそうとする人はとても勇ましい。その勇ましさに敬意を表したくなる。そして、その行動を見守りたくなるし、育みたくなる。
今日の仕事を終えた。
帰っても十分。
なのに、自発的な熱情が膨らんでいるからか、まだまだ仕事をしようとする。しかも、それは誰もがやりたいとは思わない仕事。
誰もが嫌がりそうなことを嫌がるのは当たり前の反応だが、誰もが嫌がることを率先して取り組み、しかもその状況を好きであろうとする前向きな姿勢が人間としてとても美しいんだね。
皆さんの周りにはそういう人いますか?
もしいるなら、大切にお付き合いしてください。
身近な人なら、労わり、励まし、一緒にいてあげてください。
人間、∞の可能性だから、何にでもなれる。
人間、何でもやれる。
2016年
1月
21日
木
知らない人から声をかけられたときに、その場で立ち止まってその人の話を聞いてみようとする人の勇気には敬意を表する。
今の時代、
この日本では、
知らない人から声をかけられることは大変に怖いことだ。だって、知らない人だから。知らない人は、自分が知らないことだから。自分が知らないことは、とても怖くて不安で、自分の知らないうちに何かに巻き込まれてしまう。
だから、知らない人に関わるのは怖いこと。
しかし、である。
その知らない人に関わり、まずは話を聞いてみようとするその人は、その怖さや不安を前にしても問題のない心の状態なんだね。或いは、そもそもそれを怖さや不安で受け取っていない心の状態なんだね。
島崎には、とても健全健康に思える。
子どもの頃を思い出して欲しい。知らないことは怖かったであろうか?知らない世界は不安だったろうか?もちろん、そういうこともあったろうと思うが、でもそういう時期よりも前はどうだっただろう?不安よりも前に、怖さよりも前に、先にあった自分の心は、ワクワク・ドキドキ・うきうき・すごいすごい・・・他にも色んな形容ができる心の躍動ではなかったか?
多くの人は、中々にそうではない。
だから思う。
立ち止まって人の話を聞く人。
とても素晴らしい勇気なんだと。
2016年
1月
21日
木
そんなことはあるのだろうか?
「私には関係ありません」
何事も、自分と関係のないことなどない。本当は、全てが自分と関係している。なのに、自分には関係がないということはどういうことなんだろう?
それは、自分には手におえることではない、と切り離しにかかる作業でもあり、実は同時に自分の能力を、自分の可能性を、自分の若さを、自分の影響力を、自分の範囲を、低く小さくさせていることに等しい。
自分のことを自分で行う。
自分で自分の可能性を低くする。
自分がやったことだから。
自分は∞の可能性だから。
そこから、低くなることも出来る。
しかし人間よ。
それで良いのだろうか?
なんのために私たち人間は、人間として生まれてきたのか?生まれてこなくても良い可能性も沢山あったはずなのに、生まれてくる可能性を選択してきた。
知らない人に声をかけるとよく聞く言葉。
「私には関係ありません」
それに対していつもこう思う。
「人間よ、あなたは∞の可能性なのだ」
関係のないモノは一つもないことを立証する日は近い。その時まで、島崎は声をかける。声をかけ続ける。
2016年
1月
19日
火
人間は、そんなもんじゃないだろう?
人間は、その程度のもんなのか?
いや、違う。
人間は、多くの人間たちが想っているような人間像ではないはずだ。今まで体験してきたことで人間を計るなら、それは曖昧で、不確かで、根拠が無いもの。歴史で経験してきたことで人間を計るなら、それは窮屈で、屈辱で、悲惨で、残酷なことだ。
人類の歴史は、500万年ほどの間あっても、平和なときは20日も無かったと言われるから、そんな過去から人間を計るなら、既に人間は絶望の中にいるじゃないか?
人間は、そんなもんじゃないだろう?
人間は、その程度のもんなのか?
人間は、ホントに進化しないのか?
人間は、可能性が閉じているのか?
ホントに、平和な世の中を実現することは出来ないのか?
いや、違う。
出会っていないだけだ。
変化の兆しに。
物質だけがあったとき、そこには未だ生命は誕生していなかった。物質だけがあったときが確かにあった。そこには生命は居なかったのに。
ある時、生命が誕生してからは大きな変化。
生命で溢れ出して、生命が当たり前になる。
人間も同じ。
出会ってしまえば
まるで変わる。
物質だけがあったときに、生命を計ることは出来ない。それは物質で生命を計ろうとする愚かな行為として語り継がれる。生命は、生命によって計られる。生命の基本単位、これが生命を計る。
人間も同じ。
可能性の閉じた人間が、可能性の開いた人間を計ることは出来ない。それは愚かな行為として語り継がれる。可能性の開いた人間は、∞の可能性の人間によって計られる。人間の基本単位、∞の可能性において人間が何なのかが分かる。
人間は、多くの人間が思う様な人間ではない。
人間は、そんなもんじゃない。
人間は、こんなもんじゃない。
2016年
1月
18日
月
答えを手にする間際に来ているのに
それを手にすることが出来ない
そういう事が皆さんにはないだろうか?
自分が何者かを知りたいと心の奥底では願うはずだ。しかし一方では、自分が何者かを知る機会に巡りあうことを恐れている。知りたかったから、色々と動き回ったのに、いざ知る機会に恵まれたとき、腰が引けてしまい、出会うこと事態を敬遠してしまうことはないだろうか?
島崎にはあった。
あの時は本当に怖かった。
しかし、本人は気付いていないんだね。
自分では分からない。
どうしてその様になっているのか。自分自身を知らないままの状態だから、答えが迫っている事情に出会うときであるにも関わらず、ワザと危険な事情を用意して、わざわざ不利な事情を設定してまで、答えから遠のこうとする。
挙句の果てには、その状況に対して正当な解説までを付け加える。そうして自分を納得させている。よくは知らない自分なのだけれど。
島崎にはそれがあった。
実は、受け入れる準備が出来ていないんだね。自分と出会うのを、本当は心から待ち望んでいるにも関わらず、それよりも薄っぺらいところで、自分には未だ準備がされていないと思い込むことで、何かを守ろうとする。
果たしてそれは、守るべきモノなんだろうか?
手放すことでスッキリするときに来ているのに。
そんなこと
繰り返している
人類歴史
悔しい。
人間の心。
2016年
1月
18日
月
皆さんは、生涯をかけてでも出会いたい人というのはいるだろうか?島崎には、そういう人がいた。今、このブログを書くようになっているのも、そういう人に出会ったからだ。
それが僕にとっては英雄であり、歴史上の人物で言えば劉備玄徳だとか坂本龍馬だとかアインシュタインであったりする。現代の英雄を島崎は長く探していた。
そして、英雄に出会った。
彼はまさしく英雄であった。
稀代の英雄であり当代の英雄。
そして世に言うところの英雄という意味では、
彼は島崎にとっては最期の英雄となった。
今日は、最期の英雄について少し触れたい。
そして、英雄Fieldについて少し触れたい。
本ホームページにも触れているが、島崎の夢やビジョンには英雄という表現が出てくる。英雄といっても、最期の英雄に出会った今の島崎にとっての英雄とは、特定の誰かではない。
夢とビジョンのところに書いてあるように、島崎にとっての英雄とは、誰もが皆んな英雄なんだね。そういう意味で、英雄という言葉や意味はなくなり、個性だとか、オリジナルだとか、そういう意味合いになるのかも知れない。
そんな風に想うようになったのが、最期の英雄との出会いだった。彼は、人間であれば誰もが皆んな英雄であった事をアツく語り、それを立証してしまった存在。彼の後に続く人は、誰もが皆んな英雄となってしまう。
それが、人間の本来のあるべき姿。
英雄でないという認識の方がおかしい。
宇宙自然の仕組みから見て不自然。
誰もが皆んな英雄なのだから、英雄という表現に特別性はなくなる。英雄は、その人らしさであり個性。∞の可能性の下での、その人らしさであり、個性。それが英雄。それが人間。
現状では、人間を∞の可能性とは想いがたく、自分を英雄と見て、身近な人、周りの人を英雄と見る人は少ない。しかし、人間であれば誰もが皆んな、英雄なのね。∞の可能性だから。
島崎は、そう観てる。
だから、そんな中、知らない人に声をかけるのは、そんな∞の可能性である人間、∞の可能性である英雄、人間であれば、誰もが皆んな、本当はその存在で、そういう人に出会いたい。
知らない人に何故、声をかけるのか?
英雄を生み増やす英雄、
英雄という表現をなくしてくれる英雄、
そんな存在と出会いたくて。
知らない人に声をかける。
人間であれば英雄。
誰もが英雄。
そんな英雄が、島崎の前に。
英雄たちの足音が聞こえる。
2016年
1月
16日
土
知らない人に声をかけていると、そのシチュエーションにもよるがそれが歩いている人の場合は、大体にして話を聞いてくれない。
そのときに、一番多い断り文句。
「急いでいるので」
何か予定や用事があって、目的があって、移動しているところを、島崎は声をかけているのだ。その人にとっては、その目的を一瞬間であっても島崎に妨げられることになる。少しでも話を聞こうとするものなら、予定や用事に支障をきたす可能性だってある。
急いでいるというのはそういうことだ。
しかし、多くの人が皆んな急いでいるというのは何とも忙しい社会になってしまったものだ。この忙しい社会が、多くの人に幸せや豊かさをもたらすものであれば、忙しくても、人生はとても豊なんだろう。
今の時代、
この日本では、
どちらかというと、暗い話題の方が多い。
この忙しさのために社会は豊かというよりは暗鬱で閉塞感が漂っているといっても過言ではないと想う。1人ひとりの忙しさは、既にこの社会から、何か大切なものを亡くしているかのように思えるのは島崎だけだろうか?
ここで、忙しいという漢字を見てみたい。
りっしんべん(心)に、亡くす、と書いて忙しい。
心を亡くすという文字が、忙しいという文字。
皆さんは、何を思うだろうか?
ここで、忘れるという漢字を見てみたい。
上段に亡くすと書き、下段に心と書いて、忘れる。
心を亡くすという文字が、忘れるという文字。
忙しいという文字も、
忘れるという文字も、
同じ「心」を「亡」くすと書く。
このことに気付いたとき、
ハッとさせられた島崎がいた。
皆さんは、何を思うだろうか?
2016年
1月
11日
月
全く関係のない現象であっても、繋がりを感じれるようになっていて、そこに面白さや楽しさを感じることの出来る可能性は閉じていない。
なぜならば、すべては繋がっているから。
すべては繋がっている。
だからこそ、関係のないことでも、
何かしらの関係がある。
島崎が、声をかける理由でもある。
誰もが生み出すことが出来る楽しさ、
誰もが生み出すことをしない楽しさ、
それを追求している。
人間は面白い。
人生は何とも豊かなことだ。