「ウルサイ」と連呼し、交流を断つことの未来。

知らない人に声をかける。

ウルサイと言われた体験談を共有したい。


代々木公園のちょっと入ったところにはテーブルがあって、そこでギターの練習をしているおじさんがいた。


おじさんには、話しかけた主旨を伝え、少しの時間でもいいから交流したいという意志を伝えた。テーマは、歴史的大発見の話や、今の時代を前進させようとして、1人でも多くの人と一緒に創っていきたいから、おじさんとも少しでも話を膨らませたいというもの。


おじさんは、「怪しい」と一言。


「え?今の話のどんなところが怪しかったんですか?」


一体、何がどう怪しかったのを尋ねてみる。だけど、「怪しい」の一点張りで、一体何がどの様に怪しかったのかを伝えてはくれなかった。


「怪しい」

「向こうに行ってくれ」


と言うので、怪しいという判断が一体どこから来たのかを知りたいのもあったので更に尋ねてみた。


「一体、何だと想われたから怪しいと言ってはるんですか?」


「さっぱり分からなかった。怪しい」


「あぁ、なるほど。分からないのであれば、話していく中で怪しくはないって判断されるかも知れないし、やっぱりまた変わらないかも知れない時には話をそこで止めるのでも構わないですから、少しお話をしてみませんか?」


「いや、いいよ。サッパリ分からないし、怪しいから。あっち行ってくれ」


分からないのは、現状としてそれがあるのは分かるのだが、だから少しでも交流する中で、改めて「怪しい」のか「怪しくない」のかを判断してもらうことは出来ると想う。


だから提案した。

それからは何を言っても「ウルサイ」の一点張り。

 

「ウルサイよ、お前は」

「ウルサイ」

「関係ないからあっちに行けよ」


「怪しい」と想われたり、何かに誤解されるのは、コミュニケーションのズレであったり、認識のズレがあるのだから理解も出来るし納得も出来る。ただ、残念なのは、そもそも話を聞いていないのに、一体どうして怪しいだとか、何かに決め付けた判断を出来るのだろう?という点。


交流がないなら、おじさんの中では僕はずっと怪しい存在になってしまうし、ウルサイ存在になってしまう。僕でなくたって怪しい存在、ウルサイ存在が今後も居続けることとなる。

 

おじさんの中で。


人間なんだから、誤解や勝手な決めつけや早まった判断はあるだろう。だけど、そうした未熟状態は、その現在地と向き合い洗練させていくことで関係性が飛躍的に発展したり、全く新しいアイディアや構想が生まれるにまで至ったりする。


そうした可能性が、まだ充分な交流もないままに断たれている点がとても残念だ。


今の日本は、一体いつからこんな風になったのだろう?人間たちは、大人たちは、一体いつからこんな風になったのだろう?途中で関係を断ってしまい、充分にやりきらないままに可能性を殺してしまうことの延長に、子どもたちや、未来はどの様な道をたどっていくのか?


可能性を殺し、未熟を受け入れることが出来ない状態が長く続くと、そんな人たちが生み出す周りの環境や雰囲気は一体どの様になっていくのか?


今、社会や時代は、どちらかというと明るい話題は少ないかもしれない。勿論それは、マスコミやメディアの意図的な報道にも問題はあろうかとは想うが、その一方で、1人ひとりの生き方や姿勢が、無意識の内に、本人さえも本当に望む動きを出来ていない様に追いやられたり追い込まれている状況が蔓延していることに危機感を感じてやまない。


本当に望んでいる訳ではないと想う。

だけど、1人ひとりの現在地。


それは、不信であり、不安であり、恐怖。


知らない人に声をかけるということ。まず直面するのは、1人ひとりの不信・不安・恐怖という本人が望んでいない感情との遭遇でもある。