足音が聞こえる

皆さんは、生涯をかけてでも出会いたい人というのはいるだろうか?島崎には、そういう人がいた。今、このブログを書くようになっているのも、そういう人に出会ったからだ。

 

それが僕にとっては英雄であり、歴史上の人物で言えば劉備玄徳だとか坂本龍馬だとかアインシュタインであったりする。現代の英雄を島崎は長く探していた。

 

そして、英雄に出会った。

彼はまさしく英雄であった。

稀代の英雄であり当代の英雄。

 

そして世に言うところの英雄という意味では、

彼は島崎にとっては最期の英雄となった。

今日は、最期の英雄について少し触れたい。

そして、英雄Fieldについて少し触れたい。

 

本ホームページにも触れているが、島崎の夢やビジョンには英雄という表現が出てくる。英雄といっても、最期の英雄に出会った今の島崎にとっての英雄とは、特定の誰かではない。

 

 

夢とビジョンのところに書いてあるように、島崎にとっての英雄とは、誰もが皆んな英雄なんだね。そういう意味で、英雄という言葉や意味はなくなり、個性だとか、オリジナルだとか、そういう意味合いになるのかも知れない。

 

そんな風に想うようになったのが、最期の英雄との出会いだった。彼は、人間であれば誰もが皆んな英雄であった事をアツく語り、それを立証してしまった存在。彼の後に続く人は、誰もが皆んな英雄となってしまう。

 

それが、人間の本来のあるべき姿。

英雄でないという認識の方がおかしい。

宇宙自然の仕組みから見て不自然。

 

誰もが皆んな英雄なのだから、英雄という表現に特別性はなくなる。英雄は、その人らしさであり個性。∞の可能性の下での、その人らしさであり、個性。それが英雄。それが人間。

 

現状では、人間を∞の可能性とは想いがたく、自分を英雄と見て、身近な人、周りの人を英雄と見る人は少ない。しかし、人間であれば誰もが皆んな、英雄なのね。∞の可能性だから。

 

島崎は、そう観てる。

 

だから、そんな中、知らない人に声をかけるのは、そんな∞の可能性である人間、∞の可能性である英雄、人間であれば、誰もが皆んな、本当はその存在で、そういう人に出会いたい。

 

知らない人に何故、声をかけるのか?

 

英雄を生み増やす英雄、

英雄という表現をなくしてくれる英雄、

 

そんな存在と出会いたくて。

知らない人に声をかける。

 

人間であれば英雄。

誰もが英雄。

 

そんな英雄が、島崎の前に。

英雄たちの足音が聞こえる。